2017年9月18日

スマホに依存すると、薄っぺらい人間になった気がする。



スマホ認知症

便利で、使いやすくて、ついつい過剰なほど活用してしまうスマートフォン。今や何でもかんでもスマホ、スマホと、生活必需品になったスマートフォンですが、健康に与える影響も指摘されています。

筆者が言うスマホ依存性というのは、スマホ、パソコンやタブレットなどのIT機器に頼りすぎて脳の機能を低下させてしまう状態のこと。

スマホを使うのが問題じゃなくて、頭を使わなくなっているのが問題。脳をサボらせすぎている傾向があるので、そこが良くないんじゃないかと。






頭の動きが浅くなる。



確かに、スマートフォンなどのIT機器を使っていると、考えが浅くなるのは実感できます。何というか、単純思考になるというか、発想や考えがチープになるんです。何なんでしょうね、あの感覚。

色々な情報が入り込んできて、色々と考えが頭の中を巡るのですが、まとまりがつかないというか、表面的でしょーもない考えが頭の中を巡ってしまいます。

私の感覚ですが、近頃は集中できる人が減ったような気がして、1つのことにジックリと取り組む人が少なくなっている。そういう実感があります。フワフワとどーでもいいことを追いかけている人が増えて、何というか1本の道を極めるような人が少なくなりつつある。そういう言葉では表現しづらい現状なんです。




道具は優秀。それを使う人間は、、、?



道具が優れていても、それを使う人間がポンコツだと、道具まで出来が悪いかのように評価されてしまう。スマホもこの一例でしょう。

スマホを使っているから成績が悪くなる。
スマホを使うから自分で考えなくなる。
スマホを使うから自分で行動しなくなる。
スマホを使うから自分で調べなくなる。

などなど。何かとイチャモンを付けられやすいのがスマートフォンで、とにかく悪者にされやすい。

使っている人間に問題があるとは考えず、道具に問題があると。そういうシナリオが予め出来上がっているかのよう。

包丁を使って傷害事件が起これば、人間が悪いのであって、包丁には問題はない。また、クルマで交通事故を起こせば、それは運転していた人間に責任があるのであって、クルマには責任が無い。つまり、何かトラブルが起これば、道具に問題があると考えるのではなく、道具を使っている人間に問題があると考えるのが通常です。

しかし、ことスマートフォンの話になると、人間よりも道具の方に問題があるかのような流れになる。コレ、不思議だよね。




覚えることを放棄するのを良しとする風潮。



予定だとか、日時だとか、他には電話番号、メールアドレスも、頭で覚えておかずとも、スマートフォンの中に記録させておけばそれで足りてしまう。覚えることをスマートフォンにまかせてしまうと、これがまた快適。覚えておかなくちゃと、ヘンな不安感が無い。

もはや電話番号を思い出すのも難しくなり、家族の電話番号ですら思い出せないぐらいになってしまった人も少なくないだろう。ケータイの電話帳には何千件でも入るので、それに依存してしまうのも仕方のないこと。

電話番号やメールアドレスは覚えなくなったけれども、その代わりに他のことを頭に入れておけば、それはそれで脳の活性化になる。スマホでは保存しにくいもの、例えば人間の表情とか、観光地の穴場スポットとか、電車に乗る時は何両目に乗るのがいいのかとか。覚えられることは無数にあるのだから、電話番号を思い出せなくても悲観しなくていい。

覚えなくていいという風潮が強まっているのは確かで、優れた記憶装置であるスマホがあるのだからそれを使えば良いのであって、覚えないというのは合理的。電話番号のように、それ自体では意味をなさないような単純な情報は頭で覚えておかずにスマホに入れておけばいい。





最もダメなスマホの使い方。




  • ダラダラとスマホを延々と操作し続ける。
  • ずっとスマホを手に持っている。
  • 歩いている時に画面とにらめっこ。
  • 食事をしているときに電子画面を凝視。
  • 電車に乗っている時も小さな窓を見続ける。
  • 酷い場合は、自転車に乗りながら、バイクを運転しながら(もはや曲芸)、車を運転しながらスマホを見る。
  • ちょっとでも手隙時間ができるとスマホをいじりだす。
  • お風呂の中、トイレなどにスマホを持ち込む人。もはや病気レベルだが、やってしまっている人も少なくない。
  • 布団やベッドのそばにスマホを置いて寝る。


書き出すとキリがないぐらいだが、こういう人が筆者の言う「スマホ認知症」という状態になりやすいわけだ。

私も該当する部分があるけれども、自分でも「こういうのはダメだろうな」という自覚症状はある。

これを調べたい、あれを見たい。このようにハッキリと目的があって、その目的のために必要な範囲でスマホを操作するのはもちろんいいのだけれども、ただ何となくニュースを見る、何となくビデオを観る、とりあえずtwitterアプリを開いてみる、など。ボンヤリした気分でスマホを使うのがダメ。

ダラシない使い方をしなければ、スマホは便利で生活を豊かにする道具になる。

とはいえ、ダラしなくスマホを使うと快適な気分になるのも確か。気の赴くままにYouTubeで動画を見続ける。RSSリーダーでウェブサイトの更新情報を延々とチェック。SNSの新着情報をチェック。あえて見なくてもいいし、読まなくてもいいものだけれども、そういうムダで余計なことほど楽しいのが人間の感覚。

必要なときだけスマホを操作して、余計なことはなるべくしない。そういう心がけも必要ということか。





PCのディスプレイを2つ付けて、デキる人間になったと錯覚する。



パソコンにはディスプレイが付いているが、これを増設することも可能です。ディスプレイを2つ、3つ、4つと接続して、情報を表示できるスペースを広げる。そういう使い方もあるんです。

1つだけでなく、2つ以上のディスプレイを同時に使うほうが効率的であるかのように感じてしまう。ほら、いくつものディスプレイを前にして、キーボードをカチャカチャしていると、すんごい効率がいい人間に見えるでしょ? カッコいいし、デキるオトコみたいな。

確かに、ディスプレイが増えれば効率よく作業ができるような気になるが、人間の目が見れる範囲はディスプレイ1つまで。同時に2台のディスプレイを目で見るわけにはいかないんです。1つの画面を見ていると、もう1つはお留守になるのですから、やはりディスプレイは1つで足りるのではないかと感じます。

さも効率的な環境であるかのように感じても、実際は単に注意散漫になっているだけでは(私も感じます)?。ディスプレイが2枚あると、両方使わなくっちゃと考えてしまい、視線がウロウロするんですね。視線を動かすと、頭の思考も中断されるので、考えがまとまりにくい。

効率を上げるためにディスプレイを増やしたのに、かえって効率を下げてしまっている。そう感じることもままあります。

大きめのディスプレイ、27インチから30インチぐらいのものが1つあればいいのではないかというのが私の感想です。







印刷された書籍を読んでいると落ち着く。



近頃は、頻繁に電子書籍を読む機会が増え、本屋に行って本を買ったのは何年前か思い出せないほどです。

本屋で売っている本は割引がなく、新しい本も古い本も常に定価で販売されているのが長年の不満でした。大学生の頃に、再販制度の存在を知って、「あぁ、だから本屋ではバーゲンセールをしないのか」と分かりました。しかも、アメリカでは再販制度がなく、Amazon.comでは本が2割引、3割引で販売されるのが当たり前でしたが、日本ではAmazonでも本は定価販売です。

一方、電子書籍では、本そのものは定価で販売されていますが、割引クーポンや購入時に使えるポイントが頻繁に発行されており、それらを使えば割引で本を購入できます。そのため、本を買う時は何らかの割引が付くのがもはや当たり前になりつつあり、本を買うならば電子書籍となったわけです。

じゃあ、電子書籍には欠点が無いのかというと、あるにはあります。価格や利便性では申し分ないですが、本を読むときの気分というか落ち着きの度合いが違うように感じます。スマートフォンやタブレットで電子書籍を読んでいると、ちょっと気分が変わるとネット検索をしてみたり、天気をチェックしたり、脱線しやすいんです。そういう脱線のしやすさが利便性につながるわけですけれども、集中力が途切れて不快になることもしばしば。

印刷書籍を読んでいると、読むことに没頭できて、他に余計なこともできませんから、集中できて気分も落ち着きます。販売価格は常に定価ですし、読みたいときにすぐに手に入りませんから、これらの点は欠点です。しかし、気分を落ち着かせて、集中力を高めるには、やはり印刷書籍に分があると感じます。まぁ、気のせいと言われればそうかもしれませんが。

AmazonのKindle Unlimitedという読み放題サービスが気に入っていて、2016年の8月から使っています。使い始めてもう1年ですが、読者としては満足度が高いです。

Amazonにはビデオ見放題のサービスもありますが、ビデオと違って本は自分のペースで読めるのが良いところです。ゆっくりと読みたいならば読めるし、ビュンビュンと読み進めたいならばそれも可能。料金は定額ですから、読めば読むほど得をします。

他社のように雑誌だけを読めるサービスではなく、一般書籍も読み放題の対象ですので、まだ加入していない方にはKindle Unlimitedをオススメします。


電子書籍を読む、印刷された書籍を読む、どちらも情報を得るという点では同じなのだけども、印刷書籍を読んでいると落ち着くのは不思議な感じです。





ネットのゴミ情報を好むネットユーザー。



インターネットには価値があって役に立つ情報も多くありますが、それを超えるゴミのような情報も多々あります。見なくてもいい、読まなくてもいい、知らなくてもいい、そういう情報に接していると、何だか自分自身が薄っぺらい人間になったような感覚を覚えます。

見なくてもいいのに見てしまう。
読まなくてもいいのに読んでしまう。

やっちゃいけないことをしている気はするのですけれども、余計なことほどやりたくなるのが普通の人間です。SNSなんて見なくてもいいのに見ちゃう。どうでもいいビデオなのに観てしまう。読まなくても何の支障も無いのに読んでしまう。それが快感だと感じるのでしょう。人間という生き物は。

インターネットは暇人のためのものという指摘も過去にありましたが、それは今も変わっていません。暇人を相手にするほど儲かりますし、頭のよろしくない方々を相手にするとこれまた儲かります。


無料で始められるスマホゲームなど典型です。無料のゲームなんて暇な人しかやりません。本当にプレイしたいゲームならばお金を払ってでも買いますし、熱中して遊びます。しかし、無料だと、「とりあえずやってみっか」、「つまらなかったら途中でヤメちゃえばいいね」、「どうせタダだし」と。

自分の時間(さらに課金する人まで)を投入してプレイするのに、とりあえず、ヤメちゃえば、タダだし、などなど冷静に考えればもうバカバカしいほど。

テレビCMでもスマホゲームの宣伝が頻繁に流れますが、どれも無料であることをアピールしていますよね。まずはゲームアプリをインストールしてもらい、その後に課金システムでもって何万円、何十万円ものお金を吸い上げる。もはやゲームというよりは賭博のような様相を呈しています。


ネット上にアップされるビデオも、大半はどうでもいいもので、観ていなくても生活に支障はありませんし、何か致命的なトラブルに巻き込まれるものでもありません。しかし、そういうビデオほどよく視聴されるのも事実です。

いかに暇人を相手にするか。今のネットはここが焦点になっているのです。これが良いことなのか、良くないことなのか。これは人によって評価が分かれます。





FOMOって知ってる?



FOMCならば知っていますが、FOMOという言葉は初めてです。Fear of Missing Outの頭文字を取ったもので、「他の人から取り残される不安」を意味するようです。

頻繁にtwitterやfacebookをチェックし、LINEからのメッセージは届けばすぐに読む。このように常に情報をチェックしたくなるのがFOMOです。

最新の情報をキャッチしていないと不安になり、時間があればスマホの画面を無意識に見てしまう。

メッセージが届いたら、すぐにチェックするとしても、そういうメッセージほど、どうでもいいものがほとんどです。知り合い同士、友人同士のメッセージなど他愛ないものばかりで、「それ、送る必要ある?」というものもワンサカ。

私も確かに情報チェックでスマホを毎日使いますけれども、FOMOというものは体感的に分かります。チェックし始めると、頻繁にチェックしたくなる。色々ありますよね。SNSのメッセージだけでなく、コメント、いいね!の数、メール、着信履歴、株価、為替レート、新製品の発表、レビューなど。気にし始めるとキリがないのですが、そんなに頻繁にチェックする必要がないものばかりです。

こういうのもスマホ依存症の1つなのでしょうね。