2016年6月18日
過度な自由は暴力に変質する。
http://jisin.jp/serial/other/kanaloco/24345
フラッシュモブ禁止命令は違憲と訴え 市民団体メンバーらが海老名市を提訴
フラッシュモブという用語を知ったのは、3年ぐらい前だったか。YouTubeで動画を見て、何の変哲もない光景が、徐々に変化し始め、不特定多数のヒトたちがリズムを合わせて踊り出す。そういう動画だった。
動画で見たフラッシュモブは実に完成度が高く、事前に相当に練習して、打ち合わせしておかないと、あれほど上手くはいかないだろうと思えるほどだった。
「フラッシュモブって何?」と思った方は、まずYouTubeで検索してみるといい。たくさん動画が出てくるので、いくつかを見てみるとどんなものかが分かる。言葉だけでゴチャゴチャと説明されても良く分からないものだから、百聞は一見に如かずなので、話は動画を観てから。
YouTubeで紹介されているフラッシュモブは上手に作られていて、「こりゃあ面白い」と思えるものなのだが、素人があのクオリティで「モブろう」としても無理がある。
仕掛ける相手に気づかれないように準備して、いざ本番では誕生日プレゼントの箱を開けるかのごとくワクワク、ドキドキさせないといけないのだから、一夜漬け程度の準備ではヘナチョコな出来栄えになることが不可避だ。
さて、そんな楽しげなフラッシュモブだが、嫌がる人もいるようで、禁止しようと試みる人がいれば、それに抵抗する人もいる。
フラッシュモブは、偶発性によってその魅力を発揮するもの。そのため、事前に許可や申請を求めてしまうと、魅力を減殺してしまう。
表現の自由という言葉が出てくるが、この自由の前ではあらゆる抵抗が押しのけられる。
学校で憲法の講義なり授業を受ければ、表現の自由について学ぶが、この自由は憲法が保障する自由の中でも最上位に位置付けられるほどに聖域化されている。
他にも、思想の自由、信教の自由、報道の自由など、色々な自由が憲法に登場する。
憲法の授業では、自由を制限するのはダメという前提で教えられる。国家による介入を防ぐために憲法があり、極力、各種の自由に対しては制約がかからない方が望ましい。それが憲法の基本方針になっている。
自由には、精神的自由と経済的自由があり、表現の自由は前者に含まれる。憲法では、前者はしっかり保護され、後者はある程度の制約を受けつつ保護される。
今回のフラッシュモブでも、表現の自由を制限するものだから禁止するのはダメという主張があるのだけれども、確かに、表現の自由は大事だし、尊重されるべきだが、無制約ではない。
公園や商店街、駅前の自由通路であっても、その場所はフラッシュモブを実施するためだけのスペースじゃないので、買い物をする人もいれば、仕事帰りで通り抜けるビジネスマンもいる。静かに公園で過ごしたいおじいちゃん、おばあちゃんもいる。
静かに生活する自由。
静寂を享受する自由。
商店街を通り抜ける自由。
自転車に乗って通路を通る自由。
アイスクリームを食べながら商店街をブラブラする自由。
人間がいれば、それだけ自由もたくさんあるわけだ。
買い物をする人には買い物をする自由があるし、商店街を通り抜ける人にも、それなりの自由があるわけだ。
「フラッシュモブをやってるんだから、道を通り抜けるのはダメだ」、「騒がしくなっても、ちょっとぐらいいいじゃないか」と、それも確かに自由の中に含まれる。
しかし、他の人がいる場所では、他の人にとっての自由もあるので、まさに「自由 vs. 自由」の構図になり、どっちが押して、どっちが引くかというせめぎあいになる。
憲法上の自由は、「公共の福祉」で制限されるが、これにどれほどの制限力があるのかは未知数。そもそも公共の福祉とは何なのかという点から議論があって、この議論は延々と未だに続いている。自由を制限するには基準が必要だが、公共の福祉という蜃気楼のようなものでその役割を果たせるのかどうか。
片や表現の自由、片や公共の福祉では、勝負にならない。F-15に対して果物ナイフで抵抗するようなもので、均衡などあって無いようなもの。
自由は尊重されるべきだが、度が過ぎた自由は暴力に変わる。
表現の自由も、その程度が強まれば、時として「表現の暴力」に変わる。